連日のように西日本、特に四国、九州に
超大型の台風が直撃するというとそこかしこで報じられていました。
そんな中で大分県の大谷渓谷で
上は42歳までの大人7人を含む18人が
大谷渓谷でバーベキューをやっていて孤立し
救助要請をした話がニュースとして流れました。
大谷渓谷で画像を検索するとすぐわかりますが、
川にダイレクトに入って走れたりするので
オフ車乗りに人気のスポットのようです。
川が雨が降った後に増水するのは常識です。
特に渓流域での雨では川が急激に増水して流されるなんていう事件もちょくちょく起きています。
超大型の台風が近づいていると警戒を繰り返し呼びかけている中で、
馬鹿な大人7人は子供達を巻き込んで渓谷で走ってバーベキューを楽しむことを選んだようです。
ちょうど20年前の1999年8月14日に
前日から神奈川県の玄倉川の中州でキャンプしていた18人が
川の中州に取り残され、うち13人が流されて死亡した事件がありました。
この20年前の事件の時は前日から大雨が降っており、
増水の危険性があることからダムの管理職員が巡視を行って
キャンプをしていた人達に退避を呼びかけたものの
中州でキャンプをしていた中の25人は無視してキャンプを続行しました。
(うち4人は日帰りなので直後に帰った)
1時間ほどすると神奈川県内全域に大雨洪水注意報が発表され、
また、夜には事故現場から上流の玄倉ダムが放流予告のサイレンを鳴らしました。
このサイレンからすぐにダムの管理職員が再び巡視を行い、
それでも中州でキャンプを行っている21人に退避勧告を行いましたが、
この集団はこれを拒否。
どうしても退去しないDQN集団に対して警察に退去命令を行ってもらうために
ダムの管理職員は松田警察署に通報しました。
その後、玄倉川ダムが放流を開始します。
警察が到着しダムの管理職員とともに
それでも中州に居座ってキャンプを続ける馬鹿どもに
拡声器で退避勧告を行いました。
これで高齢の男とその妻ら3名は車に乗って退避しましたが、
なお18名は中州に居座り、
ダムの管理職員と警察官に「大丈夫」等の返答をして居座りつづけました。
いや、腹立たしいですが詳しく書いた方がいいでしょう。
「殴るぞ!」「俺たちはたのしんでんだよ!」「失せろ!」
「地元の人は臆病者」「見張りを置くから平気だ」
「田舎の人は他人のプライバシーを侵すのが趣味なのね」
等々の暴言を退避勧告をしていた職員や警察官に言って退避を拒否していたのです。
その後も警察官は繰り返し退避勧告を行いますが、
DQNどもは冷ややかな態度でこれを拒絶。
仕方なく警察官は有事の際はすぐに上がって逃げるようにと言葉をかけて戻りました。
翌早朝5時半。降雨がさらに激しくなり
神奈川県全域は注意報から大雨洪水警報へと切り替えられました。
前日に警察官に退避を促されて退避した3名が
川を渡って中州に居座っている18人に対して退避を呼びかけましたが、
このDQN達はやはりこの助言をも無視。
このDQNどもは見張りも置いていませんでした。
警察官の退避勧告がうざいのでとりあえずその場を適当に言って
警察官を追い払いたかっただけだったのでしょう。
彼らの仲間による退避勧告からさらに1時間半後に
警察官がテントまで近づいて退避を呼びかけるものの
それでもこのDQN達は無視を続けました。
この時点でまだ中州との間の川の水位は膝下ほどで退避可能でした。
しかしながら彼らは意地になっていたのか中州に居座りを続けたのです。
その1時間後、とうとう中州が水没しテントが流され、
DQN達はパニックに陥りますが、
膝より上に上がっていた水位でまともに渡れなくなっていました。
膝程度の深さでも流れが速いと人間は簡単に流されます。
大雨で急激に増水した川の勢いでは
たとえ膝上程度であってももう人の力でそのまま渡って逃げることはできません。
ヘリコプターからの救助は
折からの暴風もあり、複雑な渓谷の谷間という事情もあり不可能と判断、
レスキュー隊員達がロープで川を引っ張って渡る以外の救助方法が選択できませんでした。
濁流の中、中州に取り残されるDQN達の先頭にいた男性は
レスキュー隊に対して
「おいこら!ヘリを出せ!」「早く助けろ!」「モタモタすんな!」「おまえらの仕事だろ!」
等々の暴言を浴びせ続けました。
結局、この後彼らは流され、このうち13名が亡くなりました。
救いはレスキュー隊に被害者が出なくて済んだことだけでしょう。
この玄倉川水難事故からちょうど20年。
台風が迫っている中でわざわざ渓谷でバーベキューをしていて取り残された・・・と。
いつでも必ずDQNがいるものですが、20年。
そして降雨が続く中で渓谷でバーベキューを行っていて取り残される人達が出て、
奇しくも20年前と同じく18人とは・・・。
20年と言えばちょうど一世代の交代と言っていいでしょう。
ゆえに玄倉川水難事故について全く知らない人達だったのでしょう。
愚者は経験に学ぶとはよくいったものです。
しかし、学ぶにしても命が代償となってはなんの意味もありません。
せめて私たちは過去の事例などから学ぶ、いや知るだけでいいのです。
知っていればある日そこから「気付き」を得られるかもしれません。
知らなければ「気づく」というきっかけとなる材料すらないのです。
この差は大きいでしょう。
「ゆとり教育」として愚民化教育を進めた反日団体の日教組や、
在日と仲良し、前川喜平の盟友である寺脇研などは
日本国民への教育を希薄化させ「気づく」材料をどんどん減らしていこうとしていたのです。
さらに言えば寺脇研は韓国人のエリートを養成するという目的の
コリア国際学園の設立メンバーでもあります。
そのエリート養成方法は自身が散々批判し、
日本人対しては今でも否定しつづけている「詰め込み教育」の徹底です。
寺脇研はいまでもゆとり教育を間違っていなかったと言い張って
詰め込み教育を否定するということを日本人向けに発信していますが、
寺脇研がゆとり教育を日本人の教育レベルを下げる目的で
確信的に行っていると見て間違いないでしょう。
「考える力を育成する」
なんてゆとり教育をうたっていましたが、
パヨク思想を無批判に信じ込み、
自分の頭で考えるということもろくにできないパヨク教師どもが
「自分の頭で考える力を育成する」
なんてできっこありません。
私たちは歴史に学ぶ必要があると思います。
人間1人ができる事などたかがしれています。
ですが、過去に類例があればそれを参考にすることで
似たような失敗を回避できる可能性は大いにあります。
少なくともなんの知識も無い場合とは比較にならないでしょう。
だからこそ私たちは日本の将来のためにも歴史を知る必要があります。
それは特定アジアのように相手に寄生する目的で
過去を改ざんすることではありません。
パヨクがやっているように過去の話を持ってきて
現在の価値観で判断するというのも非常識です。
その時代にはその時代の価値観があります。
わざわざ現在の価値観で批判するのは馬鹿のやることです。
本日8月15日は終戦記念日です。
かつて、終戦間際の日本では皇統の維持に期待して降伏か?
それとも皇統の維持を条件に取れるまで戦争を続けるか?
日本の枢要な地位の人達が防空壕に集まり揉めに揉めていました。
日本が降伏のためにソ連に仲介を頼んで工作をしている中、
8月9日、日ソ中立条約を一方的に破ってソ連が日本への侵略を開始。
のちにF・D・ルーズベルトがソ連による日本の切り取りを承認していたことが判明しています。
つまり、ソ連はむしろ日本を侵略するための時間稼ぎをしていただけで
日本の降伏の仲介なんぞするつもりがなかったわけです。
ですが、当時の日本にはそこしかチャンネルが無かったのです。
あらゆる手札を使い切ってしまっていた日本には
それしか手が無かったのです。
ソ連による日本侵略開始を報告された鈴木貫太郎首相に迫水内閣書記官長は
・内閣総辞職
・ポツダム宣言受諾
・対ソ宣戦し戦争を継続
の3つの選択肢があると説明しました。
鈴木首相は
「この内閣で結末をつけることにしましょう」
と即座に判断しました。
しかし、ポツダム宣言は皇統の処遇について一切触れられていませんでした。
鈴木首相の決意を受け開かれた最高戦争会議では
「国体の護持」つまり皇統の護持の1つだけを条件に降伏するという主張と、
国体の護持に加え、自主的な武装解除等々の条件を付け加えた
4条件による降伏の2案が対立、会議は膠着が続きました。
その間に長崎に2つめの原爆が投下されたとの報が入ります。
ちなみにポツダム宣言はのちに日本人に嘘をすり込むために
「無条件降伏」ということで教えられていますが、
「日本軍の無条件降伏」というところが無条件であって
その他の部分は普通に有条件降伏となっていますので無条件降伏ではありません。
私たちは嘘を教え込まれてきたと言っていいでしょう。
話を戻しましょう。
ポツダム宣言の内容では皇統の護持にあえて触れていない、
であるがために皇統をどうすれば維持できるかを考えて
降伏派も徹底抗戦派もお互いの主張を譲らなかったのです。
膠着した最高戦争会議を見かねて迫水が陛下の御聖断を仰ぐしか無いのではないかと言い出します。
鈴木貫太郎首相はこの発言を我が意を得たりと
最高戦争会議を陛下ご出席の御前会議にしました。
実は鈴木貫太郎は自分が戦争を終わらせるという決意の下、
事前に陛下に議論が紛糾してどうにもならない場合には陛下に協力を頂きたいと
最高戦争会議の前に陛下に根回しをしていたのでした。
迫水もまた、御聖断を仰ぐ事について岡田啓介元首相から助言を受けていました。
2.26事件で奇跡的に死を免れた鈴木貫太郎、岡田啓介、迫水らは
その体験から事前に綿密に策を巡らせていたのでした。
(このあたりについてはまた機会があれば書きます)
こうして8月10日の御前会議にて陛下の終戦の御聖断がくだされました。
—–
大東亜戦争が初まってから陸海軍のして来たことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて、防備は殆んど出来ていないようである。又先日編成を終った或る師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない有様である事が判った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。或は日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が将来再び起ち上って貰う外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまゝ戦を続けることは世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である。
—–
御聖断により1条件案でのポツダム宣言受諾で方向性は決まりました。
しかしながら、皇統の護持の確約はどこにもありません。
このため陸軍の内部は戦争継続、徹底抗戦のために降伏を阻止しようと動いていました。
8月14日。連合各国にポツダム宣言の受諾を通告。
この時点をもって大東亜戦争は終戦となりました。
実際には8月15日は玉音放送によって日本の降伏が国民に公表された日です。
終戦となった8月14日の午後11時過ぎに
阿南惟幾陸軍大臣は官邸に鈴木首相を訪ねました。
阿南大臣は鈴木首相に深々と頭を下げると重く言葉を発しました。
「終戦の議が起こって以来、私は総理に対していろいろな事を申し上げ大変ご迷惑をおかけ致しました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。」
「私の真意はただ一つどんなことがあっても国体を護持したいと考えただけでありまして他意があったわけではありません。」
「この点をどうぞご了解くださるようお願いいたします。」
これに鈴木首相は
「阿南さん。大変でしたね。あなたの気持ちはよくわかっています。国体はきっと護持されますよ。皇室はご安泰です。なんとなれば、陛下は春と秋のご先祖さまのお祭りをご自分の手で熱心に行われてこられましたからね。」
「長い間。本当にありがとうございました。」
と返しました。
阿南大臣は一言
「私もそう信じております。」
そう言って総理大臣室を出て行きました。
阿南大臣が出て行った後に鈴木首相は迫水内閣書記官長に一言
「阿南陸軍大臣は暇乞いに来たんだよ・・・」
とつぶやきました。
―8月15日未明 阿南惟幾自決
割腹自殺をした阿南大臣の傍らには
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」
と書かれた血に染まった遺書がありました。
阿南大臣は心の中では戦争継続は無理と理解し和平を求めつつも
ずっと陸軍が暴発しないように立ち回っていました。
そのために表向きは徹底抗戦を主張していたのでした。
阿南の割腹自殺は降伏を阻止しようとする陸軍のクーデターを失敗に終わらせることにもなりました。
こうして無事玉音放送が流され、国民が終戦を知るところとなります。
先の大戦では多くの責任者達は責任を背負ってケリをつけようとせず、
ずるずると状況を悪化させつづけ、ついに陛下の御聖断を仰ぐこととなりました。
陛下は「この日本を子孫に伝えること」のために我が身を省みず御聖断を下されました。
私たちは
「この日本をいかにして子孫に伝えていくか」
このことを考えなければならないのだと思います。
しかしながら、戦後何十年と
「公ではなく個を大事にしろ」
という間違った教育がはびこってきた弊害は大きく、
日本という国はそこら中が痛みきって悲鳴を上げているような状態だと言えます。
「国というものがなんだかよくわからない」
そんなことを恥ずかしげもなく言う馬鹿が総理になるまでに日本は落ちぶれました。
この発言はGHQが敷いた戦後教育の集大成とも呼べるものだったと言っていいでしょう。
あらためて、民主主義とは国民が学ぼうと努力を続けることでしか
よくならないということを意識していかねばなりません。
マスゴミに乗せられて
「気に入らなかったら変えればいい」
などというお試しでできた政権がなにをやったか。
政治にお試しはありません。
すべて結果で返ってくるのです。
だからこそ私たちは少しでも多くのことを知ろうと努力し、
そうした情報の中で可能な限り分析を行い、
現実の問題にどう対処していくか考え続けなければならないのだと思います。
日本は先の大戦で負けました。
多くの日本人が亡くなりました。
しかし感傷に浸るだけではいけません。
負けには必ず理由があります。
同じ失敗を繰り返さないためにも、
私たち日本人は歴史を知り、1年に1回くらいでも
「この日本を子孫に伝えていくこと」
このために思いを巡らせてもいいのではないでしょうか?
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